パリ~ロンドンへの弾丸周遊の旅。旅に行く前は、ロンドンから飛行機でバルセロナかナポリ、ヴェネツィアあたりに行こうと思っていました。
直前にもかかわらず、航空券を検索したらそれぞれ20ユーロ前後だったので、どこにしようか迷い決められませんでした。しかし、前日に見たクリムト展が忘れられず、私はまたも夜行バスを使い、パリへ。
前回に引き続き、今回のパリ芸術鑑賞の旅②では、ピカソのゲルニカ特別企画展鑑賞の様子とパリ町歩きの様子をご紹介します。
パリ・リヨン町歩き ヴィクトル・ユーゴー記念館からヴォージュ広場へ
パリ・リヨン駅からバスティーユ広場を通り、サンタントワーヌ通りを歩いていくと、右側にこの立派な建物が見えます。
ピラーグ通りを右折し、この門をくぐると赤レンガでできた建物で囲まれた、ヴォージュ広場があります。
この広場の右側の方にはヴィクトル・ユーゴー記念館もあります。彼は、1833年から15年間この建物で過ごし、多くの作品を残しました。
七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家でもあり、小説家としては「ノートルダム・ド・パリ」「レ・ミゼラブル」が代表作。
「レ・ミゼラブル」を出版したヴィクトル・ユーゴーは海外旅行に出かけますが、その売り上げを心配して出版社に「?」と書いただけの手紙を送ります。
出版社はそんな彼に対して、「!」とだけ書いた返事を出しました。彼と出版社の掛け合いは、ユーモアがあって楽しいですよね。世界一短い手紙として知られています。
「レ・ミゼラブル」は、発売後即完売になり、時を経ても色あせない大作ですよね。
ヴォージュ広場に面した建物の多くは、画廊になっています。何処からともなく聞こえてくるストリート音楽家の奏でるメロディーを聞きながら、広場を囲む建物のア―ケードを通るのは優雅なひと時を過ごせます。
パリの歴史を垣間見れるカルナヴァレ博物館
1544年に建設された後、17世紀にフランソワ・マンサールによって改築され、歴代貴族の館として使われていました。
現在は、パリの歴史を紹介する博物館として使われ、貴族の館らしく整備された中庭がとても美しいです。
ピカソ美術館で行われたゲルニカ展
「ゲルニカ」は、スペイン内戦中の1937年に描いた絵画と、それと同じ絵柄で作られた壁画。
当初はパリ万国博覧会に展示するために戦争とは全く関係ない壁画を制作する予定でしたが、スペイン人であるピカソは、ドイツ空軍によってビスカヤ県のゲルニカが受けた無差別爆撃に対し、画家なりの手段で自分の考えをハッキリと示すために描きました。
通常は、ルクセンブルグにあるMusée d’art moderne Grand-Duc Jeanに展示されている、Damien Deroubaixの作品です。
Damien Deroubaixもかなり独創的な作品を作るので、彼の公式サイトを見ると楽しいですよ。
当然ゲルニカは、スペイン マドリッド観光の一番のメイン。持ち運びの時に盗難に合うリスクもあるし、大きいので破損する可能性もあります。そのため、本物のゲルニカがないのに、「ゲルニカ展」を開催。
マドリッドにあるピカソが作成した壁画は工業用ペンキで描かれていますが、こちらのダミアンの作品は素材が木の分柔らかなイメージがあるかもしれません。
この作品が飾られていた壁には、何の表示もないので部屋にいた係の方に質問すると、彼女が喜んで説明してくれました。
この作品を本物だと思っていた人が多く、凄く心苦しかったそうです。私が質問したことで、同じ時間に同じ部屋にいたフランス語が分かる人たちには、本物でないことを知らせることができたので、貴方が私に質問したことはとても有意義なことだと言われました。
係員の方も、1日中館内に立っているだけ、または座っているだけなので話しかけてくれるのは凄くうれしいそうで、同じ部屋に飾ってあった作品まで解説してくださいました。
彼女曰く、此方の木でできたレプリカと、館内入り口付近にあったレプリカでは、入口にあったレプリカの方が、より本物に近いそうです。
泣く女シリーズの中の一つ 他のどの作品よりも、より悲哀に満ちている気がします。
このモデルは、もちろんピカソの愛人でありカメラマン、画家でもある多彩な女性 ドラマール。
ドラマールは、ピカソがゲルニカを制作している時に写真を撮り、キュビスム風の女性像泣く女シリーズのモデルとなったことで有名です。
ピカソはゲルニカの絵画制作過程で、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線など細かい部分の修正でドラマールの手を借りています。ピカソの作品の中で、他の人が制作に加わった初めての作品です。
また、ゲルニカ製作の際に、何とドラマールとマリー・テレーズがかち合い、嫉妬心から両者が喧嘩になったことも。
モテ男の宿命。彼は、「どちらか勝った方と付き合う」と言って二人に喧嘩をさせますが、その後も二人と付き合いを続けました。
キュビスム風とは、20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックにより創始され、彼らの後に続く者がたくさん現れた、現代美術の大きな動向で、様々な角度から見た物の形を一つの画面の中に納めています。
ピカソが1907年に描き上げた「アビニヨンの娘たち」(Les demoiselles d’Avignon)が、キュピズムの出発点です。